disc review熱狂の渦に巻く一晩のコミューンが提起する価値とは? ~全感覚祭を終えて~

tomohiro

最近の僕の中のキーワードに「コミューン」という言葉がある。

コミューン(commune)は、フランスにおける基礎自治体、すなわち地方自治体の最小単位である。スイスの基礎自治体もフランス語圏(Suisse romande 又は Romandie)ではコミューン(コミュヌ)と呼ぶ。

とはwikipediaの言である。個人的には、「ある程度価値観やビジョンを共有する人たちの共同体」くらいの温度感としてこの言葉はある。

例えば京都から素晴らしいバンドたちを輩出したロックコミューン、例えばナツノムジナが所属するレーベルであり、ごく最近CHIIOの参加も発表された、トーキョー=コミューン。コミューンの名を借りずとも、その機能を果たす共同体は、そこかしこに時には潜在的に存在している。

そして、僕とshijunをはじめとした運営メンバーが作り上げてきたcllctv.という空間、そこにライブイベントへの出演という形で参画してくれたバンド、ともすれば気に入って読んでくれている人。そして、そこに端を発する「友達」のコミュニケーション。そんな中にも一つのコミューンが生まれつつあるのではないか、という手応えと期待感を最近は感じたりする。

そして、音楽というジャンルの中で、僕が見えうる範囲で有数の巨大さと活発さを誇っているコミューンが、十三月の甲虫とそこを中心に開催される全感覚祭というイベントである。

 

今回は、僕が最近気になる言葉「コミューン」を胸に、それを巨大規模の開催で果たす全感覚祭に参加した上での感想や考えたことなどをつらつら書いていけたらと思う。人の気持ちは動くものなので、一旦参加前に所信表明というか、「今考えていること」を文章にしておいた。以下を参照いただきたい。

 

せっかくなので夜間公演に振り替えになった全感覚祭へ向かっている。せっかくなのでGEZANの新譜を聴いている。
タダでデカいコトを起こすということは当然それ相応のリスクと泣きを見る人というのは存在する。まぁそれは別にこの催し事に限ったことではないけど、好きという感情はとかく搾取の対象にされがちだとは思う。かと言って、こう言ったある種前例を必要としない物事にはエネルギーと多くの人の願いがこもっているのも事実ではあるので、触れてみたいのであれば難しい理屈をこねくり回すより体感した方がおそらく得られる理解は多いと思う。
この催しはまさにコミューンであると思う。僕は最近コミューンという言葉についてよく考える。結局思想や意思の境界なき拡散は無謀な願いであって、どこかに線引きが生じて内と外が生まれる。昔はそれを厭に感じて内輪ノリと片付けていたが、人の両手で抱え込めるモノが限られている以上、その中での完結と成熟を望むことを短絡的に邪とするのは良くなく、むしろみんながそう言ったコミューンを意識的に形成し、「やっていく」ことが人の世を楽しく生きぬく上で肝要なのだなと思う。
そんなわけで様々なレッテルと偏見が交差する、それでも熱量のあるこの場所を楽しみに行ってみようと思うわけです。そもそも見たいバンドも多いしね。
個人的には、この「タダ」にどれだけ人が価値を与えることを認識してペイしていくのかが気になっているのでそれを観察したいですね、もちろん無理のない範囲で僕もペイしてこようと思います。

続きは帰ってきてから感想と一緒に書こうと思います。

 

では、よろしくお願いします。

 

確か、渋谷に着いたのは23時過ぎだったかと思う。事前に友人とざっくり予定を合わせておいて、会場で乾杯しようなどと軽めの気持ちで向かっていたわけだが、クアトロに形成された長蛇の列(クアトロを含む1区画をぐるりと囲む程度の列はあった)には流石に驚いた。実はこのイベントには僕の想像を超える熱量が注ぎ込まれているのではないか、という予感を感じた。

今回、何と言ってもやはりGEZAN目当てのお客さんは多いと思うのでそりゃクアトロも混むわなと、killieを見たい気持ちに踏ん切りをつけ、「入場規制がかかった」の声とともに待機列を離脱、荘子it~幾何学模様の流れを目指してWWW Xへ。まだその時 WWWXの待機列はせいぜい数十人程度で、ここなら行けそうだなと幾何学模様を目指す長髪のヒッピーたちとともに列に並んだのだが、この列が予想以上に動かない。気づけば荘子itは始まっていたし、クアトロを諦めた人たちがどんどん流れ込んできて、気づけばWWW Xも数百人規模の行列になっていた。途中で同じく列に並んでいる友人数グループと会うことができたものの、エントランスを前にして無情にも「全会場で新規のIDチェックはストップしており、再開未定」とのアナウンスが。

さてどうしようかと、他にきている友人に連絡を取ったところ、彼らは諦めて朝まで飲む方向にシフトしたとのこと。この待機列や諦めての飲み明かしもまた生み出された一晩のカルチャーだなとか、このイベントの渋谷飲食店への経済的貢献はどの程度のものだろうかなどと考えたりしながら、なんとなく列に居残り今後の対応策を考えていた。すると、どういうわけかIDチェックが再開されたのだ。僕がドリンク代を払い、WWW Xに入れたのは24:40頃だったかと思う。僕はこの一晩の熱狂に参加する権利を得たらしい。僕の友人たちの状況を鑑みるに、おそらく新規の受付が再開してから数百人は追加で入場できていたように思う。とはいえあの大量の待機列のうちのどれだけが入場できたのかは定かではないが。

フロアは意外と空いていて、会場がパンクする前に早めに入場を制限したことがうかがえた。実際に訪れた人数を思うと難しい判断だとは思うが、参加者がパンクした人の渦で怪我をするようなことも避けねばならないし、英断だったのかとも考えた。幾何学模様のライブは素晴らしかった。名古屋のハックフィンで見た以来だが、そのオリエンタルさとトリップへ誘う気だるいグルーヴ感はますます伸びやかになっていたような気がする。単独ライブでは見たことがないような客層(明らかに彼ら目当てではなさそうな若者たち)が酒を飲みながらそのグルーヴに歓声を上げ踊っていたのが印象的だった。月並みではあるものの、良い音楽は境界を超えていくのだなと思った。

 

幾何学模様を終えた後は、友人たちと合流、彼らと一緒にO-Eastへ向かう。Tohji~KID FRESINOを狙っての移動だった。O-Eastも予想に反してスタンプを見せればすんなりと入場することができたが、いざフロアに出てみてとても驚いた。埋まっている!O-Eastのキャパは1300人。都心にあるライブハウスとしてはかなり大容量だろう。それが見事にすし詰めで、Tohjiに熱狂するその波に僕は脳が揺れる感覚を覚えた。僕は少しずつ、このイベントが巻き込んでいる人の量を実感し始めた。たった一晩の熱狂にこれだけの人が集まるのだという事実は、東京という街の底の知れなさを僕に実感させた。以前O-EastでConvergeの来日を見たときも感じたことだったが、どこから沸いてくるのか、というほどに東京はあらゆるジャンルのカルチャーに参加者がいる。

クラブ慣れした友人たちがスムーズに人の海を泳ぐ後ろを手を引かれ、割といい場所でKID FRESINOを見ることができた。今年のフジロックで見たかったアクトだったフレシノだが、流石に金曜日の29時にレッドマーキーに居座る体力はなく、泣く泣く諦めた彼のライブを観れたのは良かった。人懐っこい風貌から切り出される軽快で鋭いフロウとドロリとしたバックトラックが漏れ出た重油の中でステップを踏むダンサーのようで、かなりファンになった。

 

 

その後は居座ってGEZANを見るのが順当な流れかと思ったが、どうしても深夜にDischarming manが見たかったので、友人たちに別れを告げ、一人7th floorへ。フロアへ向かうエレベーターの列が思ったよりも進まず、ライブも折り返しに近いところで会場に入れたが、到着してまず聴けたのが歓喜のうただったので、大きく叫んでしまった。折しも彼らを愛するリスナーに囲まれた会場では合唱が巻き起こる。フジロックのGEZANステージで叫んでみせた蛯名さんがこうして小さなライブハウスで優しく伸びやかな歌声で多くに人たちの心を確実に動かしている、というのは札幌のパンクシーンが確実に日本中に届いていることを示していたように思う。ここで僕が個人的に愛読しているラーメンブロガーの方を見かけ、思わず声をかけてしまったがこれもまた一晩の熱狂が僕にさせた業か。

 

 

そもそも全感覚祭は関西が発端のイベントである。関西での開催の際には、関西のアングラ・スカムの一角もその熱狂を担う。それは初の東京開催となった今回も、他の会場から離れた小島のようなLa.mamaではその血がしっかりと受け継がれている。まさにその代表格とも言えるKK mangaをどうしても見たかったのでLa.mamaへ向かった。7th floorとLa.mamaではフリーフードが振舞われていたのが、La.mamaで印象的だったのは、フードの前の投げ銭箱にみんな続々と1000円札を投げ込みながらカレーを受け取っているシーン。色々な会場を回っていた全感覚くんの投げ銭箱にも割と定期的にお金が入るし、このイベントの趣旨(と僕は考えている)である、フリーエントランスであるからこその、投げ銭から生まれる音楽、カルチャーへの価値定義は、僕が予想していたよりも機能していたように思う。僕も少額ながら投げ銭をし、カレーを受け取った。とても美味しかった。

KK mangaのライブは悶絶の一言に尽きる。なぜかバスドラのトリガーに爆音のノイズが乗るドラム、多種の雑音、爆音を吐き出し続けるミキサー、永遠に発振するマイク。吐き出すかのように意味不明な言葉を叫べば、虚ろな目で客に手を出す、足を出す、喧嘩を売りまくる。ノーモーションでゲロを吐く、それも3度も!最後はハコのJCをぶん投げようとしてスタッフに全力で止められ、幕を引く。

おおよそまともではない状況にこの日最大の熱狂(もはや発狂か?)を見せるフロアに揉むに揉まれ、人に飛ばされ人を押しやり誰それ構わず踊りまくる。まさに体感したかったハードコアの躍動がそこにある。もはやこの日の目的の全ては達成されたかのように思われ、続くmouse on the keysを前に体力は尽き、僕の全感覚祭は終わった。最後に一晩を一軒め酒場で飲み明かすことを選んだ友人たちと乾杯をし、家路へ着く。

 

未曾有の台風によりあえなく開催中止となった全感覚祭、そしておそるべきスピード感でその振替として行われた一晩の祭典には、確かに人の熱がうごめいていた。正直全く想像の範疇を超えていた量の人が動いた10/13深夜の渋谷はいつもとは色の違った熱気にどよめき、活気を生み出した。街にあふれた長蛇の列や会場付近でたむろする若者たちが街にその日だけの陰を落としたのも事実で、コントロールできない量の人を操らねばならないイベントの難しさを感じたのも事実だった。少しツイッターでも言及したことなのだが、せっかくのフリーエントランス+投げ銭の価値定義も、人によっては視野狭窄な拝金主義に酔い、投げ銭をたくさんした自分が偉い、若者の貧困を実感するなどとお門違いな発言も飛び出す。これは投げ銭という文化と、それを軽率に自己実現に利用しようとする人とのミスマッチの結果だと思っていて、そういうしょうもないものが、ペイした額で積み上げられる空虚な精神的階層構造を産むのかも知れない。

また、フリーのイベントであるために、多くのボランティアスタッフが活躍したことも印象深いだろう。これも、ともすればやりがい搾取というか、やりたい奴はタダでも動く、というよくない風潮を想起させるのかも知れないが、僕は個人的にはそうとも限らないと思った。そもそも対価としての金銭が必要になるのは、世の中が貨幣経済であるからなのだと思うけど、基本的に「お金のかからない空間」として成立しているあの一晩のイベントには人のホスピタリティや労働力が、イベントにスタッフとして参加する、一緒にイベントを作り上げることの対価として供されている。金を介さずに、それぞれの感覚、体感を売り物にしてそれを享受することを目的としているだけに、そこに金銭の授受は必ずしも必要ではないのかも知れないと思う。これが蓋を開けたら賃金が支払われないイベントであり、ボランティアが前提条件と異なる労働をした、というのであれば問題にもなるかも知れないが、個人的にはそういうものは観測できなかった。

全感覚祭に開催にあたって、先陣を切って体を張っているのが、主催であるGEZANである、というのもこのイベントが支持を集める理由なのではないかと思う。キチンと趣旨や目的を説明した上で各地の農家を周り、食材をいただき、それをフードとして出店する。その恐ろしく泥臭い作業を実際に足を使ってやっているのは彼らGEZAN本人なのだ。その様子はベースのカルロス尾崎氏のツイッターを見ればわかる。そういった意味で、主催が先陣を切ってイベントの形を提示しているだけに、それを一概に否定することはできないのではないかと僕は感じた。

彼らは全力で彼らのスタンスを示している(まぁこの日はGEZANのライブは見なかったのだけど。)、あとはそれに参加者がどう応えるか?そういったものが問われるイベントだと思う。まだ参加者のあり方が主催の目指すものに追いつけてはいないようにも感じた。行動理念をここまで大きくして開催にこぎつけた彼らに対して、僕は素直に尊敬の念を感じたイベントだった。コミューンはすでに作られている、あとはそこに参加すべき人民がどこまで意識を持つことができるか、そういう段階に来ているように思う。コミューンとは意識や目的を共有した活動単位だと思っているので、今の全感覚祭の状況は、規模が膨らんだだけに、軽率にそれをコミューンと規定するには、人の意志の構造がもたついているようにも感じた。

 

現場でほとんど投げ銭ができなかったので、クラウドファイティングで漫画を注文させてもらった。届くのが楽しみ。

WRITER

tomohiro

エモを中心に枝葉を伸ばして聴いています。アナログな人間でありたいと思っています。野菜がたくさんのったラーメンが好きです。

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